カテゴリ: アニメ

昨日、<物語>シリーズの記事を書いた後、現在放送中の「終物語」のそだちロストが完結しました。
書いていた記事のような私の考えていたことに再び、はまってきたのでまた書いてみようと思います。

老倉育について
前回、この<物語>シリーズは人間関係の闇の部分に大きなフォーカスが当たっていると書きました。
特に家族関係についてのことが多いのも前の通りです。

老倉育はまた、これに当てはまる人物です。
<物語>シリーズは時系列をバラバラにしたまま、話が展開されていくのできちんと整えて整理していきます。

小6
老倉は両親に虐待を受けており、保護される一時期に警察官である阿良々木の両親に保護され、阿良々木家で生活をしていた。
阿良々木にその記憶はなく、老倉は幸せそうな阿良々木家を見て耐えられなくなり、自分の家へと戻ってしまう。

中1
老倉は阿良々木を夏休みに自分の家(阿良々木はあまりに荒れ果てた家だったので廃墟と勘違いする)に招き、数学を教える。老倉は一切、自分のことを口にせず、また阿良々木にも詮索をしない約束をするが、老倉の本当の狙いは阿良々木の両親に老倉家の惨状を伝えてほしかった。
阿良々木は本心に気づくことはなく、老倉は両親の離婚によって夏休みが終わった時には転校していた。

高1
阿良々木と老倉は同じ高校に入学し同じクラスになるが、阿良々木は老倉のことを全く憶えていなかった。
老倉はSOSに気づいてもらえなかったことを恨んでいて、阿良々木には強いあたりだった。
そんななかで事件が起きる。数学のテスト問題を事前に知っていた人物がいたのではないかという疑いがかかった。委員長である老倉は学級会を開き、阿良々木を議長に選任する。
犯人は見つからず多数決で決めることになるが、阿良々木を選んだ老倉以外のクラスメイトは老倉を選び、犯人は老倉になってしまう。これを理由に老倉は不登校に。

ざっとこんな流れです。
前述の本当の犯人は数学教師であった担任でした。学級会では担任は老倉を犯人として選んでいました。
老倉は高3のある日、登校してきます。その日は当時の担任が産休に入る日でした。
老倉は教室で戦場ヶ原と阿良々木のことで揉め、老倉は再び学校に来なくなります。

学級委員長である羽川は老倉と阿良々木の関係を修復しようと老倉の家に行くことを決め、訪問します。
老倉は公営団地にひとりで住んでいました。老倉は両親の離婚後、母親と暮らしていたが離婚の影響からか母親が部屋から出なくなり、食事をとることもなくなっていきました。ある日、母親は何も言わず部屋に鍵をかけたまま失踪します。老倉はその後、ゴミ屋敷となっていた母親と住んでいた家を離れ、今の公営団地に住み始めました。

阿良々木と羽川は老倉にどうしたら学校に来てくれるかと尋ねると、お母さんを見つけてくれればと答えます。

ここからは少し端折りますが、老倉の母親は餓死をして、部屋の中で腐敗していったというのがオチです。(途中で気づきそうなものだし、骨はそのまま残る気がするのですが・・・)
老倉はずっと死体になった母親と暮らしていたのです。

阿良々木はこのことを伝えるのを決意します。(阿良々木は老倉について忘れていたことの恩返しをするため)
このことを伝えられた老倉は特に驚きもせず、穏やかな表情をしていました。そして老倉は再び引越しすることを阿良々木に伝えます。(生活補助の減額によって、今の所に住めなくなったため)

と、こんな感じです。

老倉という不遇で孤独な存在
老倉はおそらく、母親の死について分かっていたのでしょうが認めたくなかったのでしょう。
虐待を受けていたとしても母親に違いは無かったでしょうし、老倉は孤独を恐れていたのでしょう。
幸せな阿良々木を見て、冷たい態度をとるのもただ単に妬みだけでなく阿良々木のようになりたかった。もしくは阿良々木に好意を寄せていたのでしょう。その裏返しの表現が阿良々木に強くあたるという選択だった。

阿良々木は老倉に幸せになってもらいたいと思うために、真実を伝えてさらに嫌われてもいいという覚悟もしています。これは老倉がずっと家族の呪縛から解放されない限りは幸せになることはできないという阿良々木の考えでしょう。

家族という人間関係は最小にして最大と前回書きました、逃れられるものではないと。
しかし、真実から目を背けることは別問題です。問題のすり替えに過ぎません。
逃れられないからこそ、立ち向かっていく精神が重要なのです。解決することが重要なのでもありません。この世は正解がないことがたくさんあります。問題をどう受け止めるのかが重要なのです。

老倉は過去を自分の目で真正面に見つめ、受け止めることで新しい一歩を踏みだしました。

老倉の存在感
老倉はかなり存在感のない人物のように思われます。(なかなかの美少女で頭がいいのでそうは思いませんが、そうしないと矛盾が生じます)
阿良々木の妹、2人も保護していた老倉の記憶がありません。(なぜか撫子は覚えていましたが)

老倉は阿良々木だけには自分という存在を認め、そして覚えてほしかった。
老倉は生まれながらにして不幸な存在でした。もし、あの時に阿良々木が気づいていたら、阿良々木が老倉を憶えていたら・・・

老倉はすべてにおいて被害者です。ヒロインの中で一番可哀そうな部類に入るくらいです。(自ら神になるヤンデレがいるくらいですから・・・)

老倉から見る孤独
犯罪者の多くは孤独感や承認欲求から犯罪を起こすことが分かっています。人は誰でも孤独を嫌い、誰かに認めてほしいのです。
普通の手段で問題解決できなくなると分かると、独自の理論や解釈で犯罪を起こします。そのどれもが一般的な理論から離れるものです。
老倉が母親の死に気づかなかったのもそのようなことが起きたのかもしれません。

いじめの問題で考えるとどうでしょうか。
いじめとはグループから摘み出され、疎外されるという認識で私はいます。
暴言や暴力は後々ついてくるものです。いじめの一番恐ろしいのは「無視」されることです。

身体の傷は大きなものでなければすぐに治癒しますが、心の傷は一生癒えることがないものもあります。

存在をないものとされることほど辛いものはないでしょう。
好意の逆は嫌悪ではありません。無関心です。

いじめと体のいい呼び方をしていますが、これは「暴行」といってもいい立派な犯罪行為です。

人の心を殺す人が今、多く見られます。
ツイッター・ラインが普及している現在、いじめの形は変わっています。残虐さは前にも増しているでしょう。
SNSで誰とでも繋がられる時代は孤独感を和らげています。目の前にいなくても、いつどこでもメッセージをやり取りすることで繋がることができるからです。
しかし、簡単に繋がることが出来るのは反面、少しの孤独感のパワーが強まっているとも言えます。
自分を含めないグループライン、ラインの既読無視という今までになかった孤独感が生まれます。

言葉はとても簡単に紡ぐことができるからこそ注意して使ってほしいものです。
ツイッターやラインを一概に悪者にすることはできません。この恩恵を受けて私たちの生活はよりよくなっていると実感する人が多いからです。
何事も使いようなのです。包丁も料理人が持てば素晴らしい料理ができますが、狂人が持てば一変、凶器に変貌します。

言葉の力はいつの時代も変わらないことを心に留めてほしいと思うばかりです。

今回は西尾維新原作の「化物語」から始まるライトノベルのアニメシリーズについての考察です。(ここでは総称して、<物語>シリーズとここでは述べます)

私は友人から薦められていたのですがライトノベルにあまり興味がなく、内容に触れたのはここ最近です。(とはいっても原作はまだすべて読めていません。アニメはざっとシリーズを通して観終っています)

私は日常で不可思議な現象の起こる物語を良く好む傾向があります。考えてみると、ジョジョも4部が好きです。
明らかなゴテゴテのSFには物語の世界に入るのに時間がかかるため苦手です。

個人的な話はここまで(笑)にして、この<物語>シリーズには主人公である男子高校生、阿良々木暦が「怪異」に関わる事件を解決していく物語です。ご存知の方も多いでしょう。


「怪異」とは?

怪異は簡単に言ってしまえば、妖怪というと理解しやすいかもしれません。人間に原因不明の不思議な現象を及ぼす存在として登場するわけです。(怪異に対する説明は長くなるのでここまでとします)

この<物語>の大きな特徴の1つが、怪異に関する(怪異そのものという例外がありますが)ヒロインが存在します。

阿良々木君はそのヒロインを怪異から救うわけです。漫画にありがちな戦いによって怪異を倒す(取り除くと言った方が正しいか?)こともありますが、ほとんどは言葉で解決します。

また、怪異は敵としての認識は間違っています。怪異は人間に何かしようと思って存在するものではないからです。
私たち人間が何らかの原因をきっかけにして怪異を呼び寄せるのです。怪異は人間の心理によって生みだされると言っても過言ではないのです。

私の考えとしては「怪異」は「トラウマ」と同義できるのではないかということです。

例を挙げましょう
阿良々木君の彼女にしてメインヒロインの戦場ヶ原ひたぎは母親が娘の病気を治すためにと新興宗教に入信。戦場ヶ原はその宗教のおかげ?か病気が治り、母親は新興宗教に嵌っていきます。

母親は新興宗教の幹部に娘を差し出すよう言われ、戦場ヶ原は性的暴行をされそうになりますが抵抗します。この時、母親はこの様子をじっと見ていただけでした。

これをきっかけに両親は離婚、母親が宗教に貢いだ多額な借金を父親と抱えることになります。

戦場ヶ原はもし、私が抵抗しなければ家族がバラバラになることはなかったのではないと悩んでいるときに怪異である蟹と行き遭い「思い=重い」を取り除いてもらうことで、悩みから解放されると共に体重も失ってしまう。

もうひとつ例を
戦場ヶ原と対を成すヒロイン、羽川翼は家族構成がとても複雑で血の繋がった父親は行方不明に、血の繋がった母親は再婚するが離婚。血の繋がった母親と結婚した父親は羽川を連れて再婚するが過労死。その後、父親と結婚した母親は再婚し「羽川」となる。
そんな複雑な環境の中(羽川は両親に気を遣っているため、自分の部屋も無く廊下で寝ていて、自分の家事は自分でこなす)
で怪異である猫に憑りつかれ、人々を襲いストレスを解消する。

ヒロイン達の多くが家族関係に何らかの不和を持っている。また、その不和が原因で怪異による影響を受ける。
家族関係に「トラウマ」を持っていることで怪異は姿を現す。

怪異はトラウマの具現化となっているのです。
トラウマは倒すものではなく、取り除くのほうがしっくりくるでしょう。
トラウマは力で無理矢理ねじ伏せるのではなく、誰かと対話し、そのトラウマに真正面に向かっていくことではないでしょうか。


現代の人間関係
家族というものは切ろうと思って、切れるほど生半可なものではありません。
家族は他人ではないからです、血の繋がったものだからです。(羽川の場合はあまりに特殊すぎるので省きます)
どうあがいても逃げることのできない最小にして最大の人間関係なのです。
家族の存在が目の前に存在していなくても、自分という存在はその血なしでは存在しないのです。

家族だけでなく、大きな意味でもそうです。
長年続く不況、そこから湧き出る将来への不安、その不安は溜まって私たちは孤独に生きることを選択しようとしています。
ネットというツールで人間とつながっていても、顔を合わせた熱を持った人間関係はどんどんと希薄になっています。隣人の顔も名前も知らないという状況も当たり前です。
不安や孤独はどんどんと内に向かっていきます、それは闇へと変化していきます。この闇が「怪異」なのでしょう。

阿良々木君はとにかく優しい人物です。自分を犠牲にしてでも困った人を助けたいという信念をもっています。
彼は残念ながら、強い力を持っていません。持っているのは怪異である吸血鬼に血を吸われたと引き換えに手にした人間離れした回復力くらいです。これもまた彼らしい能力です。

彼はとにかく言葉で助けようとします。(本人に自覚はないでしょうが)
なぜ、こんな状況になったのか? どうして怪異はその人に憑いてしまったのか?
いろんな人に話を聞いて、他の人の援助をうけて、なんとか助けるのです。

彼も元々は人間関係というものを鬱陶しがっていた一人でした。(友達をつくったら人間強度が下がるとまで言っていました)
しかし、彼は様々な人達と関わることでヒロインたちを救ってきたのです。

家族に関わらず、私たちは熱を持った人間関係を築かないといけないと阿良々木君は私たちに伝えたいのかもしれません。

庵野秀明について

庵野秀明については説明が要らない人も多いことでしょう。
代表作で言えば、ゼロ年代のアニメを変えた「新世紀エヴァンゲリオン」の監督でもあります。
「アニメはエヴァ前後で大きく変わった」と言われるまでに影響力の大きな作品です。
(監督以外にも脚本やメカニックデザイン等、様々な部分に関わっています)

エヴァンゲリオンは聖書をモチーフにしていることは、しばしば取り沙汰されます。
もともと、エヴァンゲリオンの本来の意味はギリシャ語で「福音書(良い知らせ)」という意味があります。
「福音書」とは新約聖書のイエス・キリストの言行録のことです。(詳しく言えばマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書)
簡単に言ってしまえばタイトルはもろに聖書からとっています。作品中に出てくる多くのワードが聖書を元ネタとしたものが見られます。
このことから、コアなファンは神話をモチーフにしているのだからと作品の深読みがなされています。
  

僕が「娯楽」としてつくったものを、その域を越えて「依存の対象」とする人が多かった。そういう人々を増長させたことに、責任をとりたかったんです。作品自体を娯楽の域に戻したかった。ただ、今はそれ(現実逃避するオタクへの批判)をテーマにするのは引っ込めています。そういう人々は言っても変わらない。やっても仕方ないことが、よく分かりました。
                                                         朝日新聞「be」より


庵野本人は作品そのものに宗教的考えや神話的考察は入っていないと否定しています。
また、このインタビューは旧劇場版では有耶無耶に終わってしまったエヴァに終止符を打つため(逆に言ってしまえばオタクを納得させるため)に新劇場版を作っていると言っています。

庵野の中ではエヴァという作品はもうすでに完成されているものなのです。
残念ながら、世間は意味の分からない終結をしたことに腹を立てているのです。
(私もその一人ですが、これは庵野という才能に期待し、もっと面白いものをという欲求なのでしょう)

聖書は世界に誇るベストセラーです。(キリスト教信者の数を考えたら、当たり前の話です)
誰もが知っているこの神話を土台にすることは私たち日本人には馴染みが無くても、世界的に見れば、こんなに手っ取り早いことはないでしょう。
庵野はあくまで聖書を土台にして「新世紀エヴァンゲリオン」という作品を作り出しただけなのです。

庵野秀明の「オタク性」

庵野秀明という人間はガチガチの「オタク」です。


幼い頃から色々なマンガ、アニメ、特撮、戦記物等の魅力に次々と、とりつかれる。幼い頃から絵を描くのが好きだった。 
中学時代は美術部に所属。基礎デッサンもせず、マンガと油絵を描く日々が続く。

                                                      庵野秀明公式WEBより

このように書かれています。是非、公式で全文読んでみてください。かなり面白いです(笑)
全文読めば、庵野のオタクっぷりが垣間見れます。
また、庵野は二次制作を好んでいます、これもまさにオタク気質です。

二次制作を好む者が聖書を元に作品を作ることに違和感はないでしょう。
最近ではゴジラのリメイクの脚本・監督を務めることが決まったようです。
庵野は自分の好きな作品を自分の頭の中で妄想したものを外に出すのが飛びぬけて上手いのです。
もっと言えば、周りの人間に理解されることなどは二の次、三の次で自分の妄想を映像にすることがとにかく好きなのでしょう。

マルメラードフとは?

ようやく次の話題に移れます(笑)

庵野秀明は現代の「マルメラードフ」か?
これが今回のタイトルなのですが、マルメラードフはドストエフスキーの「罪と罰」に出てくる登場人物の一人です。
マルメラードフは場末の酒場で主人公である青年ラスコーリニコフに支離滅裂な話をしてきます。
ラスコーリニコフは厄介な親父だと思いながら話を聞くのですが、その話には聖書を多く引用し、マルメラードフの暗い心の核心を突く部分がたくさん散りばめられています。

このマルメラードフはアル中で幼い奥さんの連れ子達と奥さんと自分の娘がいるのに、仕事もせず酒ばかり飲んでいる奴です。仕舞いには自分の娘を売春させるまでになります。

当時のロシア人の多くは聖書を読んでいませんでした。(ロシア語訳の聖書が存在していなかった)
それ以前に文字を読める人もそこまでは多くなかったようです。

しかし、このマルメラードフは文字を読め、聖書もしっかり読んでいるようです。(役人ではあったのでそれなりの教養は持ち合わせていた)

マルメラードフの話に1つ、大きく不可解な部分があります。
マルメラードフはしばらく仕事をしていなかったのに、急に仕事が決まるのです。
今まで飲んだくれて借金までしていた人間がどうして急に職に就けたのでしょうか?

職に就けたのはマルメラードフの娘、ソーニャが初めての売春をした後なのです。
ソーニャは普通の売春では考えられないほどの高額なお金を家に持って帰ってきます。(ソーニャは美人ではあるのですが・・・)

ソーニャは役所の高官であるイワン閣下に売春したのでしょう。(マルメラードフの元上司です)
マルメラードフは自分の娘を売って、職を手にしたのです。

酔っ払い話とエヴァ

これは聖書の物語とリンクします。(私はキリスト教徒ではないので聖書は文学として捉えています)
キリストの弟子にユダという人物がいます。
キリストはユダヤ教について疑問を持ち、改革が必要だと考えた人でした。
ユダヤ教会はそんなキリストが邪魔になり、なんとかして処分しようと画策します。
(新しい考えが受け入れられないのは今も昔も同じだと考えると人間はあまり変化していないことがわかりますね)
そんなユダヤ教会にユダはキリストの居所を銀貨30枚で売ってしまいます。
(ユダがどうしてキリストを売ったのかはいまだ謎です。ユダはキリストを売った後に自殺しています)

ソーニャは売春の後、持って帰ってきたお金は銀貨30枚です。
マルメラードフ=ユダ ソーニャ=キリスト という対比がここで完成します。

マルメラードフは自分の悲しい人生を聖書を土台にしてラスコーリニコフに伝えようとしたのです。


庵野とマルメラードフ。この二人はかなり似通った部分があります。もちろんすべてではないですが・・・

聖書という神話に自分の思いを乗せる。
淫靡で少し不道徳な匂いがしてきます(笑)


 

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